愛について

一般性愛、あるいは異性愛と呼ばれる恋愛感情


 ぱぁん、と肉を叩く湿った音が響いて、破局とはこんな音がするのかと僕はぼんやり考えた。僕の頬を豪快にひっぱたいて去っていく彼女の後ろ姿は、悲しいはずなのに僕の中に何の感慨も与えてはくれなかった。頬がじんじんとしびれて疼きだす。痛いというより熱かった。僕も痛いが、僕がこれだけ痛いということは、彼女の手はもっと痛かったんじゃなかろうか。もはや考えても詮無いことだった。彼女の姿が見えなくなってたっぷり十分は経ってから、いや、あるいは五分も立っていなかったかもしれない、僕は機械的にアパートの錆びた金属の階段を上る。階段から数えて三つめのドアの鍵を取り出す。開いた扉の奥は当然のように真っ暗で、電気をつけるとがらんとした1Kの僕の部屋が照らし出される。テレビとろくに物の入っていない棚、背の低いテーブルに座布団がふたつ。彼女のものはもう一切残っておらず、ただただ、淡白で無味乾燥とした僕の痕跡だけが残っていた。
 がらんどうの部屋を見て、僕は初めて、彼女が本当に好きだったことに気がついた。

 ざわつく店内の喧騒は気に食わなかったが、僕はここ以外の居酒屋をよく知らなかった。
 知らないうちに傷ついていたらしい僕の心は臆病で、知らない場所に向かうことを拒んだ。だが、僕の知っている場所、気に入っている場所、どこもかしこも彼女と一緒の思い出のあるところで、僕は自分の心を守ろうとしながら、その抱えた心に毒を注ぐような自傷行為めいた真似をくりかえしていたのだった。おちょこの中で揺れている日本酒が透き通っていることすら憎らしく思えた。いつもなら、常連の僕に店主が一声かけてくれる。やれ今日は何がうまいだの、やれこの酒に合うのはこれだの。それすらなく、僕の様子をちらちらと伺いながら調理に精を出しているところをみると、僕はよっぽどひどい顔をしているらしい。お通しの枝豆を普段の十倍くらいゆっくり噛んでから、おちょこの一杯をあおる。喉を焼く熱さに頬の痛みを思い出して、尚のこと虚しくみじめな気持ちになった。
「……あの彼女さんに振られたのかい」
 一杯から動かない僕を見かねてか、ついに店主が声をかけてきた。ああそうだとも、悪いか、と不貞腐れた返事をしようとしたが、最初の「あ」さえ声にならず、口から空気がもれていった。
「何が合わなかったんだろうなあ。お前、気が利くだろうに」
 そうだ。僕は彼女に心を尽くした。結婚まで視野に入れて、彼女の為ならといろいろやった。指輪まではまだいかなかったが、服やアクセサリーの類は彼女が欲しがれば贈ったし、記念日は絶対に忘れなかった。喧嘩はたいてい、僕が妥協した。仕事の都合より彼女の都合を優先した。旅行は彼女が行きたいところだった。全部愛していたからだ。僕は彼女を愛していて、きっと将来家族になる。僕が気を配り、彼女の為に、様々なものを捧げた。何がいけなかったのだろう。実のところ、僕たちの関係にとどめをさした、あの破局の音が響く直前に、僕はまさに彼女本人からその理由を聞かされていた。
「あなたは私に逃げられないように、私に都合の良い男を演じてるだけ」
「あなたは私を愛してるわけじゃない」

 愛って、何だろう。

 僕は日本酒分の代金だけ払って、騒々しい店を出た。飲み屋街は夜でも軽やかに明るく、空に星はちっとも見えなかった。キャッチのすき間を抜けて、僕は歩き出した。
「振られたんだ」
「なんで、そうやってわざわざ傷をえぐるのかなあ」
 夜の公園は静寂に満ちていて、居心地がよかった。ブランコに座っている僕、あるいは幻覚の彼女は、僕の本当に落ち込んだ声を聞いて抑えた笑い声をあげているようにみえた。
「笑いごとじゃない」
「だって、えぐるように仕向けてるのは自分なのに」
 おかしくておかしくて。僕、あるいは彼女はブランコを揺らす。
 彼女との場所を巡ったのは僕だ。彼女の面影を求めてあちこち歩き回ったのは僕だ。僕は彼女を失うことがこれっぽっちも想像できていなかったし、あったとしてもこんな形だなんて思いもしなかった。どうして彼女はここにいないんだろう。どうして僕の手元に、家の鍵はふたつあるんだろう。ブランコにはもう誰もいなかった。風に吹かれたブランコは、錆びた鎖をきぃきぃいわせて揺れていた。僕も彼女も、別にブランコは好きじゃなかったと思う。ただ、夜の公園できぃきぃ鳴っているブランコは、僕たちから現実感を奪った。子供に戻ったように、僕たちはブランコを揺らし、そのきぃきぃ鳴る音を聞いて笑った。夢のような時間だった。人目も年齢も気にせず、ばかみたいに笑いあった時間だった。
 ああ、夢だったのかと僕は思う。ブランコはもはや揺れておらず、静寂の中で佇む置物となりはてていた。幸せだった時間。彼女の隣に僕がいる。僕の隣に彼女がいる。それだけでよかったというのは、今思い直せばあまりにもできすぎている。あまりにも月並みでお粗末な恋心。
 認めよう。彼女の言う通りだった。僕は彼女を愛していなかった。僕は彼女に恋していただけだった。僕の愛は、彼女の愛と違いすぎて、すれ違っていってしまった。それだけの話。
 涙は最初から最後まで、一滴も零れることはなかった。心に空いた穴を埋めるには、いますこし時間が欲しい。僕が泣くのはきっと、いつかもう一度彼女と会えた時だろう。その時には、僕は彼女を愛することができる。今度こそ。


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