黒音ありて灰雪奏でる月明かり

降る灰は雪の如く、大地をゆるやかに殺してゆく。


 静か、だった。
 ほろほろと零れるように雪が降っていた。息をつけば、吐息は白く染まって広がり、冷たい空気の中に溶けてゆく。
 空にはまあるく大きな月が鎮座している。ぎゅ、ぎゅ、と新雪を踏みしめる音だけが虚しく響いている。
 目深に下ろしたフード一枚では風雪と寒さを防ぎきれず、乾いてしまった唇を無意識に舐める。
 ただひとり、孤独に歩く男が何を目的とし、どこを目指しているのかは分からない。
 男は薄氷色の鷹を肩にとまらせ、ただ広がる夜の雪原を往くばかりである。
「見えるか」
 男から零れたのは、驚くほど冷えた声音だった。一切の情動を排し、用意された脚本を淡々と読み上げたかのような、低い声。
『見えぬ』
 どこに向けられたかも定かにならぬ声に、的確に応える声があった。空気の振動ではなく、脳に直接伝えられる否定の意思に、男は首を振る。 そもそも、と鷹が続けた。声なき声の主は、男の肩にすっぽりとおさまった鷹であった。
『如何に我が氷の化身であれ、所詮は意思を持った末端よ。雪氷を見透かすことは出来ぬ。ここにはもはや何もない』
 此度は無言の返答をし、男は再び雪を踏みしめる。
「この国は死んだ。この大地にも命が芽吹くことはおそらく、二度とない」
 何の感慨もなさげに呟いて、男は歩を進める。冷えた黒瞳が見据える先には、ぼんやりと輪郭を現しはじめた山脈がある。 その山頂から、闇に埋もれる雪よりも黒々と、重たい噴煙が天へと噴き上げていた。
 噴き上げられた灰は、この地に雪と混じり合って降り注ぐ。その灰が原因で王が死んだ時に、終わりは始まっていたのだろう。
 王が死んだ。王子が狂気の末に死んだ。幾多の民が、死んだ。
 灰雪からの救いを求めて、人々は時に本末転倒と言われても、命を投げ出してまでこの国から逃れた。
 雪。灰。そして死。
 いつしか、この国にはその三つがあふれかえった。
 かつて栄華を極めた都も、民が寄り添って暮らした集落も、この栄えた平和な国をこの国たらしめたすべてが、灰と雪の下に沈んでゆく。
 残されたのは、既に人であることを捨てた男がひとり。
「『その男、ただ一人生き残れり。
男、自らを供物に捧げ、神の慈悲に与えられし力をもって新たな生命を創造す。
則ち世界の再生なり』」
 男の薄い唇がそんな言葉を紡いだ。かつて在った国でうたわれたおとぎ話。聖書。誰もが知る創世の言の葉。
『突然どうした。ついに気でも触れたか?』
 揶揄いと皮肉を込めた異形の鷹の一言に、男は目を細める。
「いや」
 否定し、そして山頂を仰ぎ見た。
「ここに再生の主は訪れないだろうと思ってな」
 鷹が男の肩を離れた。力強く翼を羽ばたかせ、高く高く灰雪の空を舞い上がる。
 雪原の中に、黒髪の男ただ一人が、残された。


(c)Mineakira/Gomokumame
since 2013